『なぜミャンマーでクーデターは起こったのか?』わかりやすく解説します

経済

2021年2月にミャンマーで軍事クーデターが発生しました。

しかし、情報統制もあり情報が少ない状況で、報道の割には「なぜクーデターが起きたのか?」「何が目的なのか?」「正義はだれ?悪はだれ?」と混乱している状況です。

この問題は、ミャンマーの歴史的背景から見ることで非常にわかりやすい構図となります。

ミャンマーとは

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クーデターの背景

簡単に説明すると

憲法改正したいアウンサンスーチー VS 憲法改正したくない軍隊

と言う構図です。

その憲法とは2008年に軍隊主導で作られた主に5つの憲法です。

  • 主要3省支配(国防、警察などの内務、国境)
  • 緊急時全権移譲
  • 憲法改正には4分の3の賛成が必要
  • 4分の1は軍隊議員枠がある
  • 外国籍の配偶者がいる場合大統領になれない
簡単に説明すると、軍隊が選挙に負けたとしても国防や警察を支配でき、軍のさじ加減で「緊急事態」と宣言すると軍人が大統領になり、憲法改正には軍内部の賛成も必要で、外国人の配偶者を持つアウンサンスーチーは大統領になれない、と言うものです。

そのためアウンサンスーチーの政党が政権を握っていてもアウンサンスーチーは国家顧問として報道されていたのです。

この軍主導の憲法にも、アウンサンスーチー氏の国民的人気にもミャンマーの歴史が深く関わっています

 

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英国の植民地時代

1852年に世界的に力を持っていたイギリスの植民地となります。

当時のアジアは欧州の植民地となる国々が多く存在しましたが、1904年の日露戦争をきっかけに「アジア人でも白人に勝てる」と言う考えが少しずつ広まり、ミャンマーでも独立への意識が高まります。

日本軍は、この独立をしたいミャンマーを利用しようとします。

当時の日本は、日中戦争の最中でもあり、ミャンマーを抑えることで中国を支援するルートを遮ることができると画策します。(援蒋ルート)

その後、日本軍の指導の元にミャンマー独立部隊(ビルマ義勇軍)が結成されます。

その中にアウンサンスーチーの父でもあるアウンサン将軍がいました。

日本の支配

その後、イギリス軍を追い払い日本に実質的な支配をされることとなりますが、日本に支配されていることは独立ではないと反感が高まります。

そんな中日本は敗戦し、ポツダム宣言を受け入れます。

そしてイギリス軍とも話し合い、アウンサンアトリー協定(独立宣言)を結びます

独立を世界的に認められるも、1947年にアウンサン将軍は暗殺されてしまいます。

今でもアウンサン将軍の命日は国民の祝日となっています。

 

ネーウィン社会主義時代

その後、政権を握ったのはビルマ義勇軍をルーツに持つネーウィンでした。

しかし、彼はミャンマーを社会主義国家とします。

社会主義とは全国民が平等を目指す中で、個人の資産や権利を国家が牛耳ることで、中国やソ連はこれにより競争率をなくし衰退しました。

仏教をルーツにもつ社会主義を一党独裁で行ったのが当時のミャンマーでした。

当然、国家は衰退していきました。

この社会主義国家により経済的な疲弊をしたミャンマーの国民は民主化を求めます。

アウンサンスーチーの帰国

1988年に民主化運動が激化していき、そしてアウンサンスーチーはイギリスやインドで生活していましたが、母親の介護のため帰国します。

「アウンサン将軍の娘に国を変えてほしい」

当時の民主化運動はリーダーがおらずに暴徒化しており、リーダーを求めていました。

その後、アウンサンスーチーはNLDという政党を立ち上げましが、軍部による弾圧を受けます。

しかし、そのような軍の行動は国際的に批判を受けたため、選挙を行うこととなります。

NLDの圧勝

選挙しても勝てるでしょう

軍はそうたかを括っていましたが、結果はNLDが圧勝します。

しかし、軍上層部は

NLDの勝利は不正、NLDの上層部を逮捕拘束する」

これが有名なアウンサンスーチーの軟禁です。

1991年には非暴力を貫いたアウンサンスーチーにノーベル平和賞が贈られます。

 

タンシュエ独裁政権時代

1992年には軍出身のタンシュエ氏が政権を握ります。

この時にあの憲法を作ります

  • 主要3省支配(国防、警察などの内務、国境)
  • 緊急時全権移譲
  • 憲法改正には4分の3の賛成が必要
  • 4分の1は軍隊議員枠がある
  • 外国籍の配偶者がいる場合大統領になれない

2011年にはアウンサンスーチーは軟禁を解除されますが、その数日前に総選挙が行われます

 

テンセイン政権の民政移管

当時のミャンマーは様々な国より経済制裁を受けていたため

  • アウンサンスーチーの解放
  • ミャンマーの民主化

により国際社会にアピールする必要がありました。

外から見ると選挙もする民主化した国となるが、圧倒的に有利な選挙に対する法律も作っていました。

しかし、テンセインは予想以上に民主化に積極的に取り組み、世界的に評価されることとなります。

テンセインの軍事解体

  • 検閲廃止(表現の自由の確保)
  • 多重為替の廃止

 

軍の特権を排除し、海外企業を誘致し経済発展していきます。

シンガポールにしても経済発展と競争は深い関わりがあります。

軍はこのように政策で結果を出したため、「国民的に人気の高いNLD相手でも勝てるんじゃないか」と思うようになります。

2015年の選挙

テンセインはNLDに敗退します。

しかし、テンセイン政権は優秀な人材が多く、逆にNLDには若い人材は多いが経験は浅かったと言われています。

アウンサンスーチーは憲法により大統領になれなかったため、大統領の上に立つ国家顧問という役職を作ります

しかしながら、テンセイン政権により強固な憲法を作られていたため、アウンサンスーチーには憲法改正が不可欠でした

2020年の選挙とロヒンギャ問題

2020年も選挙が行われますが、当時は世界的にロヒンギャ問題が取り上げられアウンサンスーチーは国際的に批判されていました

その背景には宗教の違いがあり、アウンサンスーチーはロヒンギャ族を守ると自分を支持する仏教徒が離れていき、ロヒンギャ問題を無視すると世界的に批判を浴びる、という二つの選択を迫られます。

その結果、アウンサンスーチーはロヒンギャ問題について触れることをせずに黙認するようになります。

「国民を味方につけて憲法を改正したい」

という思いが大きいと言われています。

その後、選挙が行われ、そしてNLDの圧勝となります。

しかし、この二期目の圧勝に軍部の野党が騒ぎ始め「選挙の不正」を訴えます。

そして、現在報道されているようにクーデターが発生します。

まとめ

 

現在はミャンマー軍による情報統制により確実な情報は伝えられませんが、憲法改正に焦った軍がクーデターを起こしたと考えることで辻褄があいます。

しかし、このような暴力による解決方法は国際社会からの孤立の可能性が高く、賢い行動とは言えません。

今後もミャンマーの動向には目が離せませんね。

【参考書籍】

ミャンマー権力闘争 アウンサンスーチー、新政権の攻防

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